縣神社 (あがたじんじゃ)
通称     
主祭神  
      西部義久(にしぶよしひさ)
摂末社祭神     
      伊弉冊尊(いざなみのみこと)
      伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
      菊理姫命(くくりひめのみこと)
      大山祇神(おおやまずみのかみ)
      祭神不詳(さいじんふしょう)
      奥津彦神(おきつひこのかみ)
      奥津比売神(おきつひめのかみ)
      天照大御神(あまてらすおおみかみ)
      豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)
      事代主神(ことしろぬしのかみ)
      軻遇槌神(かぐつちのかみ)
      天津彦根命(あまつひこねのかみ)
地図 map
住所        
〒501-3714 岐阜県美濃市曽代287番地の1
由緒由来  
当社は美濃市曽代、標高437メートルの古城山の麓、曽代川が長良川に注ぐところ、小だかき丘に鎮座する。古くからの曽代の産土神であった。此処に承応3年(1654)村人達は当地の豪族西部義久公を慕って奉斎した。西部義久公は、清和天皇の後裔、姓は源、義仲の時代に姓を木曽と改め、それより七代の孫、木曽又太郎家村の代に西部と姓を改めた。西部家三代の家頼の時後醍醐天皇に仕えて建武中興に軍功があり、延元元年(1336)菊桐の御紋使用の許可を賜った。以来縣神社の表紋に五三の桐の紋を使用した。義久公の父伊勢茂昌は、武田信玄に仕え、上杉謙信との戦いに軍功を顕し。武田勝頼死後は農州に入り、織田信秀に仕え、信秀より御印紙を下賜された。その後豊臣秀吉のために追われ、美濃國に退き、義久父子は曽代に住みついた。以後は上有知鉈尾山城佐藤城主に仕え、郷土のために尽くし、承応3年1月8日、84歳の生涯を閉じた。里人たちこの偉大なる功績を称え、人柄を慕って産土神様に奉斎した。明治維新を迎えて村社に列し、縣神社と称した。明治42年付近の神社十三社を本殿に合祀奉斎した。戦後は、昭和21年に宗教法人令により、昭和27年に宗教法人法によって宗教法人になった。
祭礼情報  
4月第2日曜日