| 神明神社
				(しんめいじんじゃ) | 
      			|  |  | 
            		| 
          			
          			| 主祭神 |  | 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) |  | 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) |  | 事解男命(ことさかのおのみこと) |  | 豊受毘売命(とようけひめのみこと) |  | 伊邪那美命(いざなみのみこと) |  | 菊理比売命(くくりひめのみこと) |  | 大国主命(おおくにぬしのみこと) |  | 速玉男命(はやたまおのみこと) |  | 火産霊神(ひむすいのかみ) |  | 少彦名命(すくなひこのみこと) |  | 高産霊神(たかむすいのかみ) |  | 宇迦御魂神(うかのみたまのかみ) |  | 誉田別命(うかのみたまのかみ) |  | 天児屋根神(ほむたわけのかみ) |  | 菅原神(あめのこやねのかみ) |  | 八意思兼神(すがわらのかみ) |  | 忌部神 |  | 大己貴神 |  | 木花佐久弥姫神 |  | 
                	| 
                		
                		| 摂末社祭神 |  | 平田篤胤(ひらたあつたね) |  | 本居宣長(もとおりのりなが) |  | 荷田春満(かだのあずままろ) |  | 賀茂真渕(かものまぶち) |  | 
          		| 
              			
				|  | 地図  |  | 住所 |  | 〒508-0101 岐阜県中津川市苗木字日比野1112番地の1 |  | 
          		| 
              			
				| 由緒由来 |  | 当社縁起維新の際散逸、草創は明らかではない。源平の頃義仲勧進する処なりと言ひ、義仲の時代を遡ると考へられる。大永6年遠山氏植苗木より今の苗木城を築き移転以前、飯田城主小笠原定基の領地。既に社殿あり、代官高柴伯耆守景長奉行再建とあり。当時は熊野神社と言われていた。遠山氏居城を苗木に築いてよりは、鎮守として尊崇し、湯立、流鏑馬の神事あり藩吏が監督をした。現在も9月17日に流鏑馬執行。湯立神事は明治に廃る。慶長15年城主遠山友政社殿建立し神田3反歩を献じ、延宝7年9月16日遠山和泉守友春神明鳥居奉建、享保8年9月9日城主遠山勝三郎藤原友将神明宮奉建造営、寛政5年5月吉日城主遠山左吉藤原友寿奉造営、文化8年9月吉祥日遠山刑部少輔藤原友寿春再営、文久2年6月遠山美濃守朝散大夫藤原友詳二之鳥居一宇奉再営。九代遠山友清が安永3年に太刀(備前長船住近影)を奉納、国の重要文化財。明治4年9月現在の御本殿拝殿に建直された。現在苗木地区は90%以上が神葬祭を行ひ、明治元年の神仏分離令のもと、仏教を廃止し神道のみ信仰されてきた歴史があるからである。この苗木藩の動きの背景には江戸期の國学がある。苗木藩士青山稲吉(通称青山景通)平田門人に入門し、爾来高弟となり、藩内多くの影響を与へた。稲吉が新政府に登用される(神祇官権判事)と、苗木藩の、各種改革を行ひ神仏判然を行った。苗木藩では、神葬祭願いが平田門人から出され(元年8月16日稲吉)明治3年には館内の士族平民に至るまでの伺書がだされ、神仏判然が藩を挙げてなされ、神明神社に祖霊社が建立されるに至った。 |  | 
                     	|  |