東照宮
(とうしょうぐう) |
|
|
|
摂末社祭神 |
大山咋神(おおやまぐいのかみ) | 応神天皇(おうじんてんのう) | 家都御子神(けつみこのかみ) | 速玉男神(はやたまおのかみ) | 熊野久須美神(くまのくすみのかみ) | 菊理媛命(くくりひめのみこと) | 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) | 伊邪那美命(いざなみのみこと) |
|
|
地図
|
住所 |
〒506-0031 岐阜県高山市西之一色町1004番地 |
|
由緒由来 |
東照神君徳川家康公没後三年の元和五年(1619)、時の高山藩主金森家三代重頼(幼少時駿府にて小姓として最晩年の家康公に仕えた。)、高山城内に東照権現社を勧請。十年目の寛永五年、城に西面する西之一色鴻巣の杜尾崎に遷座したのが飛騨東照宮の創始である。金森藩六代頼ときの延宝八年(1680)社殿を改修、清鏡寺跡に東耀山松泰寺を建立別当寺とした。元禄五年(1692)金森藩は羽州上ノ山に転封、高山は所謂天領となった。同藩はその後濃州郡上八幡に国替えとなったが、その間東照社を鎮守として護持、高山の社地は約七十年に亘って御宮跡と呼ばれ、松泰寺のみ寺院として栄えた。その後金森藩は宝暦騒動によりお家断絶、東照社も故地高山へ帰ったが安永、天明と飢饉が続き、祭祀は絶え荒廃。幕府直轄領となって百余年、化政期に入って当時別当を兼帯していた櫻山長久寺良賢法印、東照社の再興を発願、その奔走と江戸で旗本として復活していた金森家後裔重任等の尽力によって再建の運びとなり、時の郡代芝与市右衛門正盛の采配により、高山の有力町人(内山忠右衛門ら)の財政援助もあって、同じ鴻巣の杜の現在地を卜し、山を削り、八十八段の石段を構築し、神池と石橋を設け、棟梁に名工水間相模、彫刻に 口与鹿の師、中川吉兵衛を得て文化十五年(1818)、現在の社殿、境内の結構がなった。三年後には能舞台、七年後には本地堂が建立され、その後幕末に至る迄例祭は陣屋の差配により町方が出向斎行され、郡代、請史の参拝が恒例となった。又、芝郡代による、おかめ、アオソウの面の寄贈、神楽奨励によって、おかめ踊や獅子による湯立神事も行われ、4月17日の例祭日には町方からも参拝客が繰り出し大賑わいを呈したという。維新後は幕府の崩壊・神仏判然令施行等により、別当松泰寺も廃寺、本地堂には朝日稲荷宮、官公廟が祀られることになり、明治二年には、東照宮は町方より村方に移管明治四年には村社となり、暫く村人にも氏神として親しまれるようになったが、明治四十一年には地区内の山王・八幡・熊野三社が合祀され、大正十二年には郷社に昇格、昭和に入り戦後は銀幣社筆頭格として現在に至っている。その後昭和四十九年には旧清見村森 白山神社が合祀された。尚境内社として高山市始祖金森初代長近公を祀る金龍神社が祀られていて、市民の崇敬を集めている。
文化財等 1、東照宮本殿一棟、付唐門、透塀 県指定重要文化財
2、飛騨東照宮 おけめ舞 ひょっとこ舞の付面 県指定重 要無形民俗文化財
3、本地堂一棟 付 棟札一枚 高山市指定有形文化財
4、四神旗四本(黒漆塗棒、縮緬三葉葵紋染抜旗、彩色木彫 竿頭飾) 高山市指定有形文化財
5、幸田善太夫高成墓一基(第八代代官)松泰寺墓地 高山 市指定史跡
6、非常用乾飯蔵跡石碑 高山市教育委員会建立
7、小峯大羽句碑 (大羽 東京の人 飛騨に近代俳句を導 入した先達) 高山市文化協会建立
8、明治37・38年役記念碑 乃木希典書 松倉石石碑 |
|
|