天満神社
(てんまんじんじゃ) |
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地図
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住所 |
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原字天満山4146番地 |
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由緒由来 |
当社創建年紀不詳なりと雖も、郷土社寺記録集にも天満山の麓に従一位天満天神の祠ありと記載あり。社置の位置は関ヶ原部落の西方高地にして天満山の麓絶景の地にあり。境内の畔に藤古川の清流あり。近くに池寺池ありて風雅の地なり。社伝によれぱ、中古の頃京都北野神社の分霊を勧請したりと云ふ。付近一帯を社領地と定め、天満山と称し、戦国時代に至りて美濃國城主斉藤氏の一族柴井七?カ来りて居を構ふるに及び、付近一帯の耕地を寄進し、神田と称し(今尚字名として存す)崇敬の念篤く、居住地も柴井と称せしめたりと。現在此部落を柴井と称するは之より始まりしならん。柴井氏の子孫不明なるも、基石依然として現存す。慶長年間関ヶ原の合戦に於いて社地一帯は西軍の将宇喜多秀家の陣所となり、遂には激戦地と化し、兵火の厄に遇ひ、神殿その他灰燼に帰せり。旧幕府時代に至りて不破郡岩手藩主竹中氏の所領に属するや、文教の祭神として領主の崇敬篤く、毎年祭礼三月二十五日には侍臣を遣して代拝せらるるを例とせり。当時木鳥居の寄進あり。今猶其敷石を存す。爾来李童の崇敬いよいよ深く、現在に至る。李生の集団参拝常に絶えず。要するに古来より柴井天神と称し、一般崇敬特に篤かりしこと現在元和寛文享保年間の棟札に依りても立証することを得べし。 |
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