八幡神社
(はちまんじんじゃ) |
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主祭神 |
応神天皇(おうじんてんのう) | 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) | 神功皇后(じんぐうこうごう) |
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地図
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住所 |
〒503-1325 岐阜県養老郡養老町飯ノ木477番地の1 |
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由緒由来 |
創祀不詳なれども、源義朝平治の乱に破れて、尾張國野間の内海に落ちんとせし時、この地を通過し、当社に参拝路次恙無く彼の地に至らむ事を祈りけるに、当村の伊藤某と云へる者、玄光と共に義朝を扶けて柴船に潜伏せしめて難なく彼の地に着船せしめたりと云ひ、古書に有名なり。当時義朝の休息せし地も休息所と云ふ。其の傍らの樹上に鎧も脱ぎて掛けしかば、その樹も鎧掛けの松と云ふ。又、食事をせし時、蘆を折りて箸とす。其の箸を倒に地に刺し、当社の神に祈り、この者再び芽を生ぜば、源氏再興の期あらんと云へり。其の蘆今尚生存し、此の地を蘆塚と云ふ。橋あり。此の橋より義朝主従を柴船に乗せて出しより、今に源氏橋と云ふ。然れば当社の創立は平治以前なるべし。領主高須藩主の崇敬厚く、慶長六年十二月二日徳永式部卿より社田??五十五石五斗寄進あり。正保三年三月二十一日領主小笠原主膳正より上田一反歩の祈祷料として寄進せらる。摂社 諏訪神社(建御名方命、八坂刀賣命)慶長六年十二月二日領主徳永式部卿より社田三十石七斗寄進あり。文化十一年三月五日再建あり。摂社 神明神社(天照皇大神)慶長六年十二月二日領主徳永式部卿より社田??六十二石五斗寄進あり。正保三年三月二十一日領主小笠原主膳正より祈祷料として上田一反五畝歩寄進あり。天明六年三月十二日再建あり。末社 御鍬神社(豊受大神)元字山道の堤に鎮座ありしが、明治五年三月当社境内へ遷座す。明治二十五年十月再建。末社 多度神社(天津日子命、天麻比古津命)嘉永六年冬大地震度々あり。村中安全ならむ事を多度神社へ村民代参人を遣し、祈念せしかば、安全なりしを以て報賽の為安政元年一月創立す。文化二年濃陽村明細記飯ノ木の條に左の記録あり。八幡宮 神三尺五寸・三尺五寸境内御除地。 |
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