熊野神社 (くまのじんじゃ)
通称     
主祭神  
      家津美御子大神(けつみこのおおかみ)
      速玉之男神(はやたまのおのかみ)
      熊野久須美神(くまのくすみのかみ)
摂末社祭神     
地図 map
住所        
〒501-0512 岐阜県揖斐郡大野町上秋字権現前176番地の1
由緒由来  
創建年月日不詳。古来一村氏神とす。古文書及棟札等は往年火災に遭い加ふるに藪川筋堤防決壊に依り焼失或いは流失せしため、現存せざるも口碑伝説の古記録に依れば、鎌倉権五郎景政十三代の曾孫垂井城主長屋太郎右衛門景教の嫡男長屋大膳亮景興の嗣男長屋與五右衛門景直の二男長屋二郎丸景満の創建なり。祖父長屋大膳亮景興は勇壮の士にして剛勇武芸に鍛錬し、紀州熊野の深山幽谷に或いは加賀の白山の霊峰に武術を修行し、学力優秀才能に富み、強力にて、衆に秀で長じて弓術に一層堪能なるを以て世に半月と号す。垂井城の領地の内赤坂以東二万石余を与え、元大野郡饗庭(大野町相羽)は城壁を築造し、城主となれり。景與は日頃熊野権現を崇敬し同神社より御分霊を拝受して饗庭城の守護神として神社を創建し、奉斎せしが、天文十六年十二月十一日斉藤道三に攻められて落城。景直には幼児二人ありて、長男は本巣郡長屋の郷に落ち延び居住す。之れ長屋家の祖なり。二男二郎丸景満は極幼少なるを以て乳母に連れられて乳母の在所大野郡上萩の莊に至り養育せらる。是上萩村長屋家の祖先なり。此の饗庭城の落城の際乳母は二郎丸景満と共に守護神なる熊野権現の御尊像を奉持し、上萩の莊に社殿を建立して鎮祭せり。是今の村社熊野神社なり。傍らに専大寺と称する伽藍ありて、北方圓鏡寺に付属し、社僧之が奉仕す。元来土岐氏の領地なりしが、慶長七年加納藩士松平忠敬氏の領分となり。寛永十三年大垣藩主戸田氏鉄公の領分と変わり、二郎丸景満五代の孫長屋市右衛門地頭大垣藩主戸田公より庄屋被仰付苗字帯刀を許され明暦二年八月二十三日歿す。後代々庄屋を嗣ぎ、明治維新に至る。この間二百二十余年当熊野神社を維持経営せり。
祭礼情報  
4月3日