濃飛護国神社
(のうひごこくじんじゃ) |
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地図
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住所 |
〒503-0887 岐阜県大垣市郭町2丁目55番地 |
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由緒由来 |
当社は大垣市郭町に鎮座しており明治維新より西南,日清、日露各役を経て今回の支那事変、大東亜戦争に至る英霊一万八千九百数十柱の御霊をお祀りしている。明治元年戌辰東征の役勤王報国のため旧大垣藩主卒多数王師に従軍せしが、奥羽越後において軍事奉行佐竹五郎初め54名戦死せしにより、翌2年8月旧大垣藩士戸田氏共 朝旨に依りて城下操練場に仮招魂祠設立、初めて招魂の祭典を行ふ。同3年8月旧城内二の丸を以て招魂場と定め、祠宇を創建して、祭式を執行す、同四年十月戸田家賞典禄の内63石8斗、永世祭祀料として毎年寄付あり。同八年九月国庫より毎年神饌、祭祀料、営繕費を支給せらるる事となり以後官祭招魂社と改称す、同年12月戸田家寄付の祭祀料63石8斗を廃せられ、公祭費として金200円宛毎年支給せらる。同12年官の許可を経て、前々年西南の役従軍戦死大垣在籍の士民天岡直香初め12名を合祀す。明治24年濃飛大震災に罹り、社殿悉く倒壊す、是に於いて再建を企て寄付金を募集し、内務省より補助金500円下賜せらる。同28年竣工せり。明治30年及33年の両度岐阜県出身軍人にして日清戦役に従軍し戦病死せし者253名合祀の儀許可せられ、臨時祭典を行へり。次いで明治37、8年日露戦役に会し名誉の戦病死を遂げたる県下出身者の英霊二千五百五十二柱を合祀せらるるに至り、社の規模素より小なるに非ざれど、是に至り頗る狭隘を感ずるに至れるを以て、拡張改築の儀起こり、県下在郷陸海軍将校一同の奮起となり、招魂社改築期成同盟会を組織して、寄付金を募集し明治39年工事に着手、同42年に至り竣成を告げたり爾後大正3年日独戦争あり、昭和の御代に入り同6年偶々満州事変勃発するや、これを契機として日本主義宣楊の声澎湃として起こり、特に神社崇拝の必要を痛感するに至りしが、昭和十年時の岐阜県知事坂間棟治氏時局重大の折柄、招魂社の祭典を一層荘厳にすべしとなし、年々戦病死者の合祀祭を執行し、全県下の遺族をして参拝せしむるに至れり。尚此の官祭招魂社の維持及び祭事の翼賛に関する事項を処理するため、明治34年彰忠会の設立せらるるあり、時の知事川路利恭氏を会長に推し、次いで四十四年知事薄定吉氏を会長に推したり。昭和12年に至り彰忠会を復興し、県知事を総裁に、学務部長を会長に推し、以下副会長、評議員、幹事等を全県下各郡町村長会長その他多数の官民に委嘱し、敬神報国の念篤くせんことに努む。昭和14年3月27日を官祭濃飛招魂社と改め、更に同年4月1日官報告示を以て内務省指定濃飛護国神社と改称せらる。今次事変以来一般人士の崇敬益々加わり社殿の改築御造営神域拡張の儀起こり、御造営奉賛会を設立会長に岐阜県知事を、副会長に岐阜県学務部長、大垣市長、高山市長、岐阜県町村長会副会長を推し崇敬区域(西濃一市五郡及び飛騨一市三郡)内の各町村長、帝国在郷軍人分会長等を役員に嘱託し、内務省技師角南博士の設計に基づき御造営工事進捗中、たまたま昭和20年7月29日戦災の為、本殿、拝殿、社務所共に全焼により、社殿の御造営の儀起こり、昭和30年9月29日御造営奉賛会を設立、会長に大垣市長を推し昭和31年4月起工、翌33年4月21日本殿竣工、同34年幣殿、拝殿竣工せり。昭和40年8月西濃運輸株式会社社長田口利八氏大鳥居を奉納する。昭和40年10月西濃郷友会連合会手水舎を奉納する。昭和40年10月26日天皇皇后両陛下岐阜国体行啓の御砌幣饌料御奉納御参拝される。 |
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