子安神社 (こやすじんじゃ)
通称     
主祭神  
      神功皇后(じんぐうこうごう)
摂末社祭神     
地図 map
住所        
〒503-2213 岐阜県大垣市赤坂町字羽根4026番地
由緒由来  
創祀不詳であるが、初めて史籍に見えたのは、三代実録に貞観十八年七月十一日、授美濃國正六位上児安神社従五位下とあるのが最も古く、美濃國神明帳の出来た天暦の頃には不破郡八十二社の内正二位児安大明神とあり。年次を追って授位された由緒ある神社である。按ずるに、宮代南宮神社の中に児安神社があって、三代実録及び美濃國神明帳の児安神社に擬せられている向きもあるが、平治物語に佐藤重成が義朝に代わりて子安の森にて討死云々とあり、八雲御抄に子安の森赤坂宿の北金生山の麓云々とあり。また熊坂の謡曲などにも青墓の子安の森などとあるに依っても当社が古くより知られていたことは明らかである。当社は氏子は云ふまでもなく領主戸田家の帰依は殊の外で、社殿の寄進をはじめその他の供え物等絶えずと云ひ、大垣藩地方雑誌に依れば、将軍家家綱公誕生の時戸田左門氏該社内の竹にて産刀を造りて献上せられければ、霊験ありて産安かりしと云ふと記されてあり、八雲御抄美濃明細記戸田氏系図美濃國古蹟考新撰美濃志等に何れも同様の記事を載せている。享和十年二月二十二日大垣城主戸田氏長公の奥方御妊娠の砌用人眞野源左ェ門を代参として派遣されて当社境内の竹を伐って産刀を作り、安産を祈られた。かつての霊験殊に著しく安産のみならず、其の産児は賢明創建であつた外領主氏信公氏西公氏定公三夫婦何れも御健在の佳例があったので、爾来領主の奥方が御妊娠の際は、安産を祈って産刀を上る例となった。明星輪寺明細社録に子安森境内東西二十間、南北三十間藪組二反四畝二十歩右古跡にて社領無御座禰宜無御座二社御城様御立とあり、古くは子安大明神妊御前二社と称したが、明治の初には子安香椎両社と云ふ。後ち子安神社、若宮の両社と改めた。
祭礼情報  
9月21日