天神神社
(てんじんじんじゃ) |
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地図
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住所 |
〒500-8801 岐阜県岐阜市忠節町4丁目10番地 |
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由緒由来 |
当社は斎藤氏の祖加賀國住斎藤加賀守藤原吉信菅公を崇敬し、同國江沼郡敷地村に勧請す。吉信九世孫斎藤帯刀左衛門親頼鳥羽天皇天永年中始めて当國の目代となり、同村の天満宮を厚見郡今泉村に分祀す。爾後嘉吉三年六月本社及紅梅殿、老梅殿、末社に至る迄斎藤氏より再営あり。天文三年九月六日長良川大洪水この時社頭大破す。同庶O年九月二庶O日尾張國織田備後守信秀の軍因幡山城を囲む。この時社殿兵火に罹る。後永・オ年九月一日織田信長の大軍亦た来て因幡山城を囲む。その時再度社頭灰燼に帰す。その頃此の地に一柳家氏居住し、当社を以て産土神と崇敬し、社頭を再営す。後年一柳子孫豊臣氏に仕へ伊履?小松藩播磨國小野藩の領主となる。故に小松、小野両藩主関東へ参勤の路必ず当社に奉幣あり。深く崇敬を尽くさる。寛永序Z年二月一柳家より拝殿を造営せらる。当社を八梅天神と民間に称する。社地に八実梅あるを以て也。古来より神木に梅樹あり。花一重にして花毎にして花毎に八実を結ぶ。依って八梅の称あり。亦当社南方凡そ四町余りを隔て天神の小祠あり。此の地に八梅樹あり。古蹟考に曰く八梅天神在厚見郡今泉村邑東南陸田之内有神林而森東有一柳監物旧住之地云々。旧社人椙山家あり。当代迄処齔「と云ふ。明治四年帰農す。爾来伊奈波社神官奉仕す云々。当社元岐阜市今泉字掛所裏に在りしが、明治三曙ワ年処鼬試O日現在地(元稲束字小屋前を忠節町と改む)に移転す。明治四藷?N八月二庶l日同市稲束字町並無格社神明神社を合祀す。 |
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