大八柱神社
(おおやはしらじんじゃ) |
|
|
主祭神 |
底筒男命(そこつつのおのみこと) | 中筒男命(なかつつのおのみこと) | 表筒男命(うわつつのおのみこと) | 神功皇后(じんぐうこうごう) | 大山咋神(おおやまぐいのかみ) | 軻遇槌神(かぐつちのかみ) | 奥津比売神(おきつひめのかみ) | 奥津比古神(おきつひこのかみ) | 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) | 伊邪那美命(いざなみのみこと) | 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) | 菊理姫命(くくりひめのみこと) | 厩戸豊聡耳皇子命(うまやどのとよふさみみのみこのみこと) |
|
|
|
地図
|
住所 |
〒506-2131 岐阜県高山市丹生川町大萱字宮垣内740番地 |
|
由緒由来 |
創祀未詳なり。里伝に曰く、当社は天正十年十月吉城郡高原郷諏訪城主江馬輝盛敗亡の時夫人某氏常に信仰する住吉明神の御霊代の神鏡を奉じて傅人横山盛方に導かれ辛くして当地に遁れ来り農家に潜伏し、後一祠を営みたりと云ふ。又云ふ。当神社は江馬一族累代の尊崇する神社にして寿永二年備前守平忠盛男修理大夫経盛の末子として生まれたる竹壽丸建久八年十五歳にして、加冠江馬小四郎平時経と号し、北条四郎時政に養はれしが、後に故ありて当國高原郷日向野村に逐はれ、延命寺に寓れ、名を輝経と改め高原郷殿村に築城諏訪城と称し城主たり。爾来累代当神社を尊崇し、年々共進金並びに賽物を供し崇敬怠ることなし。而して江馬家十六代この間飛騨北部を管領し、進んで越中猿倉城を陥し、永禄二年江馬常陸守輝盛甲州武田信玄に属し、天正元年信玄卒去するや上杉謙信の幕下に属し、天正十年飛騨戦乱に際し、荒城郡八日町橋畔に於いて討ち死にするや夫人従者住吉明神の御霊代たる神鏡を奉じ傅人横山盛方に導かれ辛くして逃げ来り、此の地に潜匿してありしと伝ふ。傅人横山の後裔横山家今尚存す。寛永十年及び寛政二年十月改築造営の棟札を蔵す。明治四十一年三月、日枝神社、秋葉神社、荒神神社、白山神社、神明神社、太子神社を合併し、大八柱神社と改称す。旧社名住吉神社。 |
|
|