七社神社
(ひちしゃじんじゃ) |
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主祭神 |
天児屋根命(あめのこやねのみこと) | 天太玉命(あめのふとたまのみこと) | 天穂日命(あめのほひのみこと) | 天思兼神(あめのおもいかねのかみ) | 天手力男神(あめのたぢからおのかみ) | 天鈿女命(あめのうずめのみこと) | 武甕槌神(たけみかづちのかみ) |
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地図
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住所 |
〒501-1303 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬1094番地 |
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由緒由来 |
美濃國大野郡三座の中上鼻長大明神又は七社神社とあり。美濃明細記にしき内花長上明神又は上長瀬七社明社とあり。当長瀬村は往古平安時代に大炊頭政長公居城の地たりし旧跡長山寺過去帳にあり。其の氏族の繁栄に伴ひ分族して各地に根拠を有し、其の地に移り守護神を奉祀せり。即ち府内村に一社神社(現今稲荷神社と称す)本巣郡真桑村に二社神社(藪川分流前は藪村と称する処に鎮座なりしも享禄年間大洪水の際藪川分流となり、漂着し、現今の神明神社と称す之なり)神原村に三社神社(当時村社三社神社)赤石村に四社神社社城村に五社神社(当時結城神の内元村社五社神社)下長瀬村に六社神社と御分霊を当七社惣社より分社して勧請せしものなり。その後鷹司桂大納言従三位藤原経公前関白右大臣藤原兼平公の御孫裔頼實公文和二年主皇後光厳院美濃國池田郡小島に臨幸の後此の地に移り長山山上に一城を築き、鷹司城と称へ居住し当七社大明神を鎮護神とし、社殿を再建し、御崇敬居らせられたり。その後、式部大輔従三位藤原冬基公長瀬三位と称へ居城し続いて土岐康貞公土岐忠冬公、土岐兼康公、土岐兼長公、土岐冬朝公、土岐忠勝公、土岐忠明公、土岐忠政公御代々長瀬城主となり、当七社明神を御崇敬厚く長山寺が菩提寺として本社の社僧たりし事跡存在せり。元弘建武の兵乱に際し、其の古記兵火に罹り焼失したるも本社が延喜式神明帳美濃明細記等に掲載し在りしを見ても今年代の古社たること明らかなり。天文四年宮川吉右ェ門尉始めて大垣城を築き、城主となり、その後織田播磨守公、竹越道陳公、(歴代城主名につき中略)御代々当七社大明神を御崇敬厚く、毎年例祭には御神酒鯣料の御供進あり。文政八年戸田采女正公より、本社御修復遊ばされたり。明治四年正月野村藩主戸田淡路守氏定公より本社御修繕在らせられ、同年二月十五日遷宮式に藩主代理大参事石川武氏社寺奉行傍島萬及兵卒祀官を従へ御参拝在らせられたり。大正四年八月六日拝殿建設す。以下略 |
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