子護神社 (こまもりじんじゃ)
通称     
主祭神  
      木乃花咲耶比女命(このはなさくやひめのみこと)
摂末社祭神     
地図 map
住所        
〒509-1301 岐阜県加茂郡東白川村越原2249番地
由緒由来  
当地古来の伝説によれば、往時隣郷付知村より杣人入り来り此の地を拓き居住せり。或時夢に女神と拝し、即神慮を奉じて駿州富士浅間神社に詣て帰りて此処に斎き奉りて子安大明神と称へ奉る。その後荒廃に帰したるも正徳五年苗木藩令を以て新地開墾を奨励せらるるや、越原村庄屋越原雄右衛門同村に藩旨を伝ふ。茲に於いて仲右衛門等十四名の者等競て開墾移住す。或時松の大樹に鰐口の喰ひ入れるを発見し、是伝説の子安大明神を斎れる処ならんと鎮守の森、産土の神として祭事を執り行へり。たまたま仲右衛門の妻産を難ずるに及び、一門斎戒沐浴神前に祈願す。やがて安産を得たりき。時に藩主遠山友将公重臣をして御立山新巣山を巡視せしむ。当時子安大明神の霊験を聞き知り藩主に此の由を伝ふや、藩公夙に嗣君を欲して煩悩せらる。依りて老臣をして代拝祈願して志を得賜ふ。爰に於て代官原五郎右衛門に命じて御立山の良材を以て造築せしめ、津島より真野門之太夫聘して神楽を奏し、厳かなる報賽の祭典を行はせらる。時に享保十一年なり。この再興以来社殿を修築する事屡々なり。天保七年庄屋越原源右衛門藩旨を奉して御立山の良材を以て改築をなす。即ち現今の御本殿なり。是より越原村、神土村、柏本村外四ヶ村中屋村須崎村に於いて金二十両三分米四石七斗二升、人夫三百五十四人六分を寄進す。明治元年十一月二十四日藩令により、子護神社と改称せらる。
祭礼情報  
4月29日