日吉神社 (ひよしじんじゃ)
通称     
主祭神  
      大山咋神(おおやまぐいのかみ)
摂末社祭神     
      御鍬神社(豊受大神)(おくわじんじゃ(とようけおおかみ))
      八幡社(はちまんしゃ)
地図 map
住所        
〒501-0523 岐阜県揖斐郡大野町下方字上地1060番地
由緒由来  
天正六年七月創祀。古文書棟札は往年大洪水の為流失し、現存せず。旧信州義村家系譜反旧記録に依れば、元応二年正二位青松播磨少弼國長播磨國沖に居住す。同年正月十五日後醍醐天皇に随従し、家名を赤松と改め武門となる。國長の嫡子赤松二郎判官則村は後醍醐天皇に仕ふ。然るに御若宮護良親王に従隋し沙門となり、比叡山に登り賜ふ。則村の三男赤松則?太郎大塔宮に随従す。元弘元年二月十五日父則村判官子剃髪して赤松國心と号す。日吉大権現を信仰せり。而るに大塔宮の令旨を賜り播磨の若縄に居城す。同年十月播州摩耶の城に移る。此の時に日吉山王権現を勧請す。則?に別腹有り若狭國村上義広の養子となれり。大将軍源朝臣尊氏卿に仕へ其の子孫も同じく源朝臣尊氏に奉仕せり。則為嫡男則宗十郎左ェ門土岐美濃守頼忠卿より使者を賜り応永四年九月御幕下となる。其の子孫則沖伊織は濃州清水の城主稲葉一鉄入道に仕へ則親の四男則理は濃州大桑の城主土岐左京太夫頼芸に随従し、大野郡内の原を開拓して出羽守光行は後鳥羽院判官代にて光行三男光良大野郡饗庭城を領し備中守元明の代迄内の原を上方下方の二区域に分別して弟元清に領せしむ。その後正清義正の代天正六年七月五十余日の大降雨にて美濃尾張伊勢の三ヶ国の諸川大洪水にて人畜の死之其枚を知らず夥しく流失し、内の原上方下方両区流失し、下方に僅かの民家を残すのみ。依って此の地を御名下方村と称せり。此の地の領主祖先の崇敬最も厚き日吉大神を江州滋賀郡坂本村日吉神社より御霊代を拝受勧請して本村に奉齋せり。是当村氏神日吉神社の創建なり。依って古来江州坂本日吉神社建設改造の際は本村より応分の寄進をなせり。当神社は三百有余年前の古社なり。大正四年七月本社殿並びに末社社殿を改築し、昭和八年拝殿鳥居社標等建設物件の移転をなし、(内務省木曽川上流改修工事に関し)境内を完備す。
祭礼情報  
4月2日