諏訪神社 (すわじんじゃ)
通称     
おすわさま
御諏訪様
主祭神  
      建御名方神(たけみなかたのかみ)
摂末社祭神     
地図 map
住所        
〒508-0101 岐阜県中津川市苗木字大久郷4179番地
由緒由来  
平清盛と源義朝とが戦った「平治の乱」(1159)で敗れた義朝は、わずかな共をつれて源氏の本拠である東国へ京都から吹雪の中を逃れようとした。途中、平氏のきびしい追手をさけ、美濃大垣の近くを流れる杭瀬川を船で下り、伊勢湾を横切り、尾張の国知多半島の野間に向かった。野間には同行の家臣、鎌田政家の婿にあたる長田正忠致が住んでおり、そこで関東への旅支度をしようとしたのである。野間に着いたのは、歳の瀬も押しせまった平治元年12月29日であった。長田忠致は一行を大いに歓迎し、義朝の「すぐ出発したいから、馬が欲しい」との申し出に「骨休めをしてから出発なさいませ」と引留めた。義朝一行はやむなく逗留することにし、忠致はその子景政と「東国へ逃がすか、六波羅に首を差し出して恩賞にあずかるか」相談をした。そして、入浴中に襲う計画をととのえ、風呂を勧めた。義朝は闇討ちに合いあえない最期をとげた。野間大坊には義朝の墓があり、木刀を供えるならわしが残されている。伊豆に流されれていた義朝の子頼朝が源氏を再興すると、長田忠致に追手がかかり、忠致は一族つれて一時富士山麓の浅間山に逃れた。しかし、頼朝が富士の巻き狩りを名目に忠致を捕らえようとしていることを知り、身の危険を感じて信州の諏訪まで落ちのびたが再び追手がまわり、ついに美濃苗木に逃げ、安住の場所を求めて大久郷に居を定めたという。向かいの山を富士ケ根と名付け、逃れる際に背負い来た富士神社を祭り、大久郷には諏訪神社を祭ったとのことである。供える御神酒もなく、神明川の滝の水を汲み、度々供えたと云うことから、この滝を度度造酒(とどみさ)と呼ぶようになった。大久郷にある3基の五輪塚は長田忠致と一族の墓と伝えられている。
祭礼情報  
4月13日