道後神社 (どうごじんじゃ)
通称     
主祭神  
      道後大神(どうごおおかみ)
摂末社祭神     
      天照大御神(あまてらすおおみかみ)
      国護主神(くにまもりぬしのかみ)
地図 map
住所        
〒509-3411 岐阜県高山市高根町上ヶ洞564番地
由緒由来  
三代実録清和天皇貞観九年十月十五日授飛騨國正六位上道後神従五位下。按ずるに文徳天皇仁壽元年正月二十七日詔天下諸神不論有位無位叙正六位とあり、この御時に此神も叙せられ給ひしと見ゆ。飛騨國式内外十八社考國人富田礼彦著云ふ、道後の名儀云々東山道は即近江、美濃、飛騨、信濃云々の序にて上代の四将軍の巡行も然るべし。其の後元正天皇養老三年七月按察使聖武天皇天平三年十一月鎮撫使、淳仁天皇宝暦二年十月の巡察使平城天皇大同元年五月の勧察使を始め、その他の官吏巡行の官道の後の義にて信濃堺に近き東の極ならむ。そは天平宝字五年正月云々従四位上藤原恵美朝臣直光為美濃飛騨信濃按察使とあれば、巡行の時本土の國村に来り直に信濃國へ通りたるなり。さて信濃に越る官道の険難なる嶺の数多ある内に日和田野麦の両嶺殊に険しければ其等の安穏にとて官道を守ります神社をこそ道後神とは称奉べけれ(中略)今この山中の官道の傍に道後山と云ふ大山あり。上ヶ洞大古井日影の三村入会守山也か。按ふに三村は川を隔て三処にあるも古へは一村にて道後山と称て道後神を祭し処を神ヶ洞(近称上ヶ洞)と云て社頭に手向けを祈り峻嶺に登りし成るべし。云々備考中古神祇し一般を神明と称せしに依り首後神も神明と申したるならむ故に神明神社とのみ称来れり。又本殿に道後神社と鋳付せし神鏡一面あり。(年代寄付者不詳)飛騨後風土記巻十七云ふ(上ヶ洞産土神道後神の條に)この神御祭礼には神輿を担ぎ出奉り但往古本社奉納たるいと古きなる鎌と鍬とし神輿にそへて村中氏子の家々にて巡幸なさしめ奉りて還御の節又其の鎌と鍬とを本社へ奉納古典也との延喜式神名帳にも諸国神社に鍬靫をあまた記し添へらる。天武天皇紀に五年八月詔曰く、四方為大解除用物則国別国造輸祓桂馬一匹布一常以外郡司各一刀一日鹿皮一張钁一口刀子一口鎌一口矢一具稲一束但毎戸麻一條とあり。されば当昔の郡司より納られし内にて鎌とのみ今世に残れるならむ。里説に上古この村開墾に用いし鍬鎌を祀りし地を今に御堂と云ひ、其の傍に老松一株あり。其の辺の留の字名も御鍬堂と云ふ。この鍬鎌に今本社に奉祀せり。以上は別冊文献書き抜き○集。昭和○年○月○日神社本庁の承認を得て上ヶ洞道後神社と大古井道後神社とが合併して設立する。道後神とは古来諸国に通ずる官道国境道後(みちじり)の険所に往来手向神として鎮祭されたる神にして、三代実録巻十四清和天皇貞観九年十月五日授飛騨國正六位上道後神社従五位下とあるが如く、当社は近江美濃飛騨信濃に通ずる官道の飛騨路の道後に当たり、古くは高根村の大古井、日影、上ヶ洞を道後村と称していた。大古井道後神社は中世以来八幡神社と称し来れるも、境内地は古代神籬祭場の遺跡及び天然記念物の大桧を有し、古社の風格を保ち、昭和二十七年神社本庁にて道後神社と認定されるに至ったが、上ヶ洞道後神社に於いても中世以来神明神社と称し来れども、本殿内に道後神と鋳せる年代不詳の神鏡を蔵し、道後神としての伝承を有するを以て同じく道後神社と改称し、道後神信仰に二流を生ずるに至る。たまたま中部電力(株)高根第二ダム建設計画により大古井道後神社は水没の悲運に遭ひ、両神社氏子の円満なる協議が成立。両社が合併して国史現在道後神社を設立し、道後神信仰の統一を見るに至った。
祭礼情報  
8月15日