神明神社 (しんめいじんじゃ)
通称     
主祭神  
      天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
摂末社祭神     
地図 map
住所        
〒503-0934 岐阜県大垣市外渕318番地
由緒由来  
大垣市外渕町字道下318番地鎮座神明神社は明治二十九年九月の大洪水に際し、入水中の大暴風雨の為御神殿を始め拝殿、社務所、道具庫等全部流失し、松樹その他の大木も皆枯損し、由緒など記録書類一切流失し、残存されていない。当時の洲本村役場も流失して関係の書類は保存されていない。亦氏子であり一般民家も同様の災厄により、記録書類は殆ど流失して由緒は不明。三民家に残存していた書類と先祖代々の言い傳への古者の言葉を総合すると先の様な歴史を持つ神社。この外渕町は往古は伊勢の海の内で揖斐川の流失土が堆積して出来た土地で、真菰や葦生の沼地であった。三百余り年前に戸田左門氏鉄が大垣藩主として移封されて水利土木に専念し、新田開発に尽力せられ、鵜森悪水の開発に尽力せられ、鵜森悪水の改設、今村輪中堤防の築造増強。今福水門の新設等施設せられた。正保二、三年大橋、臼井両姓は隣村外花(大垣市外花町)より正保四年北島姓は下南波村(安八郡福束村大字南波)より藩公の認許を得て移住し来り新田開発に従事し、今日の外渕町農村を形成した。此の外に安藤、浅野、渡部、近藤、山崎、林などの姓のものも往古より居住し、新田開発に努力したことは間違いないが、記録がないので詳細は不明。この正保年は藩公から正式に認許された年で、移住して来たのは共に相当古い事である。神明神社は以上の様に外渕農村が確立したので大橋、臼井、北島三姓の者が発起し、正保の始め伊勢天照皇大神の御分神を勧請して只今の処に御社を造営して鎮座し、爾来この三姓の者が主として神祭事を厳修して来た。文化年間水引の紋所の事から争ひが出来十三年間も訴訟をやって、主たる者は資力を蕩尽し、疲弊困憊に陥り、漸く数ヶ年に地方の大名主連の斡旋により和解が出来た。明治維新後も旧慣により、三姓が主となり造営祭事等執行して来たが、封建的慣習は徐々にすたり、自由民主的となり、平等となって来るにつれ、氏子中に紛擾もあったが、地震入水等の頻発で、断固改正が出来なかったが、昭和十二年支那事変で多数の成年が応召し、神前に歓送の式典を挙げ告別征途に登った。
祭礼情報  
10月2日