縣主神社
(あがたぬしじんじゃ) |
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地図
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住所 |
〒505-0046 岐阜県美濃加茂市西町7丁目62番地の1 |
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由緒由来 |
創祀不詳なれども、延喜式従三位とある。目荒れ木三年拝殿再興の棟札あり。旧号縣主大明神又は加茂縣主大明神又は縣主神社と云ふ。宝暦八年八月当社上葺棟札、安永九年十一月上葺、寛政五年六月その他棟札多数。新撰姓氏録左京皇別の條に鴨縣主は冶田連と同祖なり。彦座命之後也。又同本摂津神皇別の條に鴨君彦座命後也などとありて、当郡に命の子孫繁昌し、因って其の祖神を祀れるなり。伝に云ふ。清和天皇御宇当國司中納言在源行本霊地なるにより貞観中大社修造あり、諸人信仰浅からず神事を怠りなく年中行事月並みの勅撰詞進あり。その後星霜推移し、後冷泉天皇の御宇陸奥の阿部頼時父子乱を起こすや、源頼義義家勅令によりて之を討つ。頼義の二男加茂次郎義綱は京都の守護なりしが賊勢盛にして官軍苦戦なりと聞き、加勢のため東山道を下る途次この地に止宿し、社前通察して奥賊平定社殿造営を祈願す。乱平げて後延久年中美濃國司となるや、山田圖斉時貞に説して京都の加茂神社に準じ之を上下両社に分ちて修造す。餘公村に属するに加茂須川の川上なれぱ、加茂とし、川下なる太田町に属するを下加茂となり、社頭田七反一畝十二歩を寄付すとこれ蜂屋村加茂神社旧社人栗山加森の旧記に見ゆるなり。足利時代には当國大桑城主土岐美濃守より祭典執行あり。以下略 |
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