神明神社
(しんめいじんじゃ) |
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地図
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住所 |
〒501-0502 岐阜県揖斐郡大野町古川字中平795番地 |
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由緒由来 |
創立は寛和年間とも云ひ伝へ、宏壮なる社殿神庫神楽殿等ありて、其の構造美観を呈し樹木鬱蒼たる近郷に名高き神社なりしが、仲恭天皇の御代承久の騒乱に逢ひ、境内の荒涼甚だしく工作物殆ど散逸せり。享禄三年六月社殿の裏山崩壊して砂礫押し流し、為に本殿は云うまでもなく、御神霊まで埋没せしを以て里人畏憂一方ならず。昼夜神霊を捜索し奉れども見当たらず、村内は荒廃に帰し、回復の見込みなく殆ど一村全滅の姿なりき。斯くて社殿は再び造営されたりと雖も御神霊なく仮に石灰岩(重量二人目)を納めて内荒神と称し奉れり。その後天正十九年二月六日、古瀬村(古川の旧名。寛文元年改称)荒跡開墾御免許を下し給りて開墾に及びたり。又、分か十四年十一月社木を賜り且売り上げ代金百九十七両三分二朱を得て、村民困窮の救いを蒙り、神恩の高大なるに一同蘇生の思ひをなしたり。又天保七年の希有の大凶作にて、翌年の春に至り、村民の困窮の者二十五戸に及べるも、是又、神社境内の社木を以て御助けを蒙りたることあり。是れ村民の深く肝に銘じ今尚忘れざる処とす。旧幕府時代は大垣藩主並びに牛洞領主代々深く尊敬せられ、社殿営繕の際には金穀の奉納あり。又大工人夫等を差遣せらるを例とす。明治四年神社改めの際神鏡を以てすべしとの命に依り、時の神職豊田光平氏の三百年以前の古鏡を迎受けて神霊として奉斎す。 |
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